しんぷる・が・べすと

「愛に時間を」

「世界を変えることはできないが世界の見方は変えられる」

昔懐かしい動画を見て、あの頃と今とでは少し世界の見え方が変わってしまったような気がするな、ということを考えました。

それはつまりどんなことかと言えば、世界は広く深く、そして時を越えて繋がってしまったから、有難味や感動だったり、懐かしいっていう気持ちだったりが薄れてしまったような気がするのです。

 

 

例えば15年くらい前、まだ動画サイトは充実しておらず、世界の動画なんかはほとんど見られていなかったと思います。

世界の風景っていう意味でもそうだし、現地の人の生活などはなかなか詳しく知ることができなかった。

今みたいにYouTuberと呼ばれる人はいなかったろうし、いたとしても数は圧倒的に少なく、特に海外で活躍する人なんかは日本で知られることはほとんどなかったでしょう。

 

だから、世界の事情は本とか写真で得るほかなかったように思います。

もちろんテレビなんかでは世界の暮らしが特集されたりもしてたと思いますが、リアルな現地の生の声みたいなものが正しく伝わっていたかは甚だ怪しい。

少なくともテレビでの情報だってそれは限られており、それ以上のことは想像するしかない。

 

そうすると、思いを馳せる。

世界はどんな場所なのだろうか。

世界の人々はどんな人達だろうか。

まだ見ぬ世界が広がっているのだろうか。

あそこにも行ってみたいし、あっちにも行ってみたい。

 

それが昨今、そういうことは大体インターネットで知れるようになってしまった。

写真だってあるし、映像だってあるし、声だってあるし、音楽だってあるし、映画だってあるし、そうだ、グーグルアースなんかもありますね。

それらの情報に触れていると、以前ほど「世界を旅してみたい」という気持ちがないことに気が付きます。

もちろん映像で見るのと実際に行ってみるのとでは感じ方は全然違う、ということはよくよくわかっていますが、しかしながら「どんな場所か」という情報はある程度得てしまっている為、「知らないことを知りたい」という純粋な欲求から来る「行ってみたい」という感情は薄れてしまっているという実感があるのです。

 

便利、故の興味の希薄、なのかなと。

 

 

懐かしさも同様です。

もう見ることはできないと思っていた物。

手に取ることはできないと思っていた物。

聴くことはできないと思っていた音。

嗅ぐことはできないと思っていた匂い。

そういったものはほとんどがデータ化され、見たいときに、聞きたいときにいつでも触れることができる。

物もネット販売が盛んになり、実際に買うかは別としても、買おうと思えば買えるもので溢れている。

 

「それは有難く、えらく懐かしいモノである」なんてモノが一体どれほどあるでしょうか。

 

好きで過ぎ去った物が突如として目の前に現れたとき、人は懐かしみを感じるものだと思います。

今は過ぎ去らない。

忘れない。

人付き合いもSNSをはじめとしたサービスで繋がりは続く。

 

「繋がり」という言葉が強調される場面はいろいろあると思いますが、果たしてこんなにも繋がってしまって良いものか。

思い切って断ってみるのも良いかもしれません。

今は今大事なモノと密な関係を作り、かつての密なるモノに忘れた頃に出合い懐かしむ、というくらいがちょうど良いのかもしれません。

 

おしまい

君たちはどう動くか

最近『運動脳』という本を読みました。

とにかくまあ運動すりゃ人生全部上手くいく、と言っても言い過ぎではないほどの効果効能が運動にはある、と思わせられるほどの情報が詰まっている本です(実際にはそこまで言ってない)。

 

まず脳に良い。

集中力も増すし、記憶力も上がるしで、勉学が本分な学生をはじめとし、記憶力の低下が気になっちゃうお年を召した方においても運動は推奨される。

 

精神的にも良い。

気分爽快になるし、鬱病も治るし、心臓も強くなるので緊張にも耐性が付くらしい。

 

『運動脳』では言及されてなかったと思いますが、もちろん身体に良い。

何をするにも身体を使う人間にとって、身体を動かすための筋肉はたくましくあることが望ましく、たくましければそれだけ疲れなくなる。

 

毎日疲れてしょうがない、という人は運動をすると改善されるかもしれませんね。

 

 

しかしながら、どうしてこれほどまでに人間にとって良いこと尽くしである運動が、衝動的な行為ではないのでしょうか。

というのも、子供だったらいざ知らず、運動したくてしたくてしょうがないなんて感情はほとんどの人には湧き上がらないと思います。

もし湧き上がるとしたら毎日世界はマラソンランナーだらけでしょう。

でもそうはなってなくて、ダイエットしたいと思いながらも運動が続かない、という人が後を絶たない。

 

なんでだろうな、と考えました。

気分だって爽快になるんだし、頭も良くなるし、理想のボディも手に入る。

ましてや原始時代なんかには狩猟採集して暮らしていたのだから、生きる為には運動が必要だったわけであり、それは本能的であってもおかしくないのではないか。

 

でもそうはなっていない。

 

なんで?

 

 

考えていると、一つ仮説が浮かびました。

 

「人間にとって運動は目的ではなく食べる為の“手段”だから」と。

 

というのも、生きる為に、食料を探す為に人は運動をしてきました。

そして運動してる最中に気分が下がってきてしまっては狩りも採集も続かないのだから、運動をしてる時に気分が爽快になるような遺伝子が生き残ったわけです。

僕達はその子孫であり、だから運動をすると気分が良くなる。

 

でももし満腹状態だったらどうだろう。

満腹にもかかわらず運動をしたいと思う原始人が果たしていただろうか?というと、いないと思うのです。

いつでもどこでも食料を確保できる時代ではないのだから、動かなくていい時は無駄に動かずエネルギーを温存しておくことが優先されたことでしょう。

そしてまた腹が減ったら動く。

 

ともすると、現代人は生きることにほとんど困らないわけであり、お腹は基本的に何かが詰まってる状態なのだから、なるほど、それなら運動したくなるわけはないのか、ということに気が付いたのでした。

運動は「食欲」という本能を満たすための手段でしかない。

 

でも現代は便利になり過ぎて、運動によってエネルギーを使うことなく食料を得ることができる。

エネルギーをここぞというとき以外、極力使わないように生きてきたご先祖様の遺伝子は、運動をして食料を得ることよりも、電子レンジでチンすることを選ぶ。

運動の恩恵は計り知れないが、しなくていいならしないようにできている。

 

 

僕なりの仮説ではありますが、そんなようなことかと思います。

でもできるなら運動は絶対にした方がいい。

そう思って、僕も最近よく身体を動かすようにしています。

 

したいかどうかも大事だけれど、するべきだと思えたことをすることも大事でしょう。

 

おしまい

この列車は止まれない(ブーン)

今日は眠い。

 

自分のブログ、自分の好きなように書いたらいいんだから、無理に毎日書く必要もないんだぞ、という心優しい意見がかすかに聞こえてくるような聞こえてこないような気がしないでもないように感じている気がしたりもしなかったりするんですが、なんとなく毎日書きたいなーという気持ちが先に眠っているものですから、それを「おい、書くぞ」と叩き起こして筆を執るような思いで、キーボードに手を置いてカタカタタターンッ!と叩きならしてる次第であります。

 

一度止めたらもうダメだ、だなんて、そんなこともあると思います。

匙加減を取ることができず、やるならやる、やらないならやらない、という強い志を持ってスタイルを確立する必要があるようなこと。

 

例えばお酒好きな人がいたとしても、でも健康の為に禁酒をしたいと思ってる人がいたとして、その人は例えば「3日に1回飲む」みたいな、そういうお休みを取りながら飲むことができるものでしょうか。

というと、できないような気が僕はするのです。

飲まないなら一滴も飲まない、というのが正解で、たまに飲むくらいだったら毎日飲んだ方が清々しい。

大体「ちょっとくらい」「昨日もどうせ飲んじゃったし」「明日からまた頑張ればいいや」だなんて心に言い訳をして、そのサイクルは崩れる。

 

そのオチが僕にも見えるのです。

ここで手を止めたら、ブログなんて書きたいときに書けばいいよ、だなんて、そんな甘いことを言っていたら書かなくなってしまうのではないか、という恐怖に恐れおののいているのです。

 

というと嫌々やってるようにも聞こえるかもしれませんが、もちろんそんなことはない。

筋トレをする人が必ずしも筋トレを心から望んで取り組んでるかと言ったらそんなことはないでしょう。

筋トレの目的は筋肉の肥大であって筋トレそのものではない。

その筋トレが辛くて辛くてしょうがないんだが、しかし筋肉には育ってほしいものだから、辛くても俺は筋トレをするんだ!というのが大体の筋トレ野郎の心情でしょう。

 

ブログだって、時間も取られるし、頭も使うし、疲れてる時はどうしてもちょっと面倒が臭いなーと鼻をつまみたくなることだってあるのです。

でも書きたいという気持ちに嘘はない。

 

好きなことというのは、いつでも「やりたい」という気持ちで満ち満ちてるというわけではないでしょう。

人には気分があって、ムラがある。

 

でもそのムラに振り回されていたらいけないんだ、と言い聞かせてるのが、この文章です。

 

となんだかそれなりの長さを書いてしまいましたが、推敲とかしてないので誤字脱字、もしかしたら主張に何かしらの矛盾が生じてる可能性もありません。

その時はどうもすみません。

 

明日読んでみて、客観的に読んでみたいと思います。

 

お休みます。

お休みなさい。

 

おしまい

今日も僕はブログを書く

そういえば、元々このブログは文章の練習を兼ねたものとして始めたのですが、いつの間にかそんなことは忘れて好きに書いていました。

少しだけ「あれ?」と思いましたけれど、これはこれで面白いから良いものとします。

 

そもそも文章にも種類があるでしょう。

小説のようにお話を紡ぐ文章もあるし、会社で誰かに何かを説明する為の文章もある。

友達にメッセージを送るくらいの簡単な文章もあるし、こうしてブログに思ったままに筆を走らせる随筆のような文章もある。

そのどれもが違っていて、そのどれを目指していたのか、そもそも僕はそのことを全然考えていなかったものですから良くなかった。

なんとなく漠然と「文章が上手になりたいな」という思いだけがあったのでした。

 

 

それを改めてこの場で考えてみると、僕にお話は紡げない。

お話を考えられる人って本当に凄いなーといつも感心します。

もしかしたら訓練すれば作れるようになるのかもしれないけれど、そういう欲求も今のところない。

だから「小説的な文章」として上手になりたいとは思っていない、と思う。

 

 

誰かに何かを説明する為の文章を練習したいかと言われれば、そんな願望もない。

堅苦しい文章を書くことはあまり好きではないから、むしろその堅苦しさの中にわざとほころびを作りたいくらい。

そうでなければ反対に誰よりも堅苦しくしたい。

 

 

誰かへのメッセージはある意味練習したい。

というのも、こういうブログみたいなテイストで誰かに文章を送ると、多分相手は「怒ってるのかな?」と思うと思うのです。

でも僕は怒っていないから、頑張って絵文字とか「!」マークとか入れてみたりするんだけど、やっぱりガラじゃないなーって送ってからいつも思います。

だから本当はこういうシンプルな感じでバシッと送りたいんだけれど、僕の勝手なポリシーで相手を不安がらせるのは忍びないなと思って、あんまり実現はできていないというのが現状です。

絵文字やら「!」マークを使わず、相手をおもんばかる空気を醸し出すことはできないものか。

あるならば僕はそれを練習したい。

でもブログでやることではない。

にゃむにゃむ。

 

 

消去法で、結局僕はブログを書く為の文章をブログで練習したいだけなのではないか、ということに気が付きます。

なんとなく「面白い文章」というものを書きたいなとは思っているのですけれど、それは決して「笑える」という意味ではございません。

別の言葉で表現するならば「ユニークな文章」とでも言えばいいでしょうか。

「変」って言ってもいい。

誰にもできない唯一無二の表現で、かつちゃんと読める文章を書きたいなと、今はそんな風に思っております。

 

内容を求めてではなく、表現を求めて来てもらえたら一番かしら。

 

でも内容だってそこそこに。

 

ってね。

 

むつかしい。

 

おしまい

できないことができることになる

最近お気に入りのお蕎麦屋さんに開店してすぐに行ったのですが、僕のほかに誰もお客さんがいなくて、僕と店員さんだけのとってもプライベートな空間が出来上がりました。

内心「寂しいな」と僕は思って、早く誰か来ないかななんて外をぼんやり眺めながらお蕎麦をすすっていたのですが、最後まで誰も来なかったです。

 

待ち人来ず。

最後まで寂しかったな、なんて思う。

 

そして、よく耐えたな、とも思うのでした。

 

というのも、僕は誰もいないお店に一人で入るなんて絶対に無理だと思っていたのです。

思っていたというか、実際に「あれを食べよう」と思って行ったお店に車が一台も止まってなくて逃げ帰ってきたことがあるくらい、僕にとって「一人でご来店」はハードルの高い行為でした。

それが一体どういうわけか、心の成長か、どうしたものか、まさか一人で入って食べ切るとは恐れ入った。

 

我ながら、人は成長するものだなと思いました。

 

それで言うと、僕は元々人見知りで、誰かに質問されたことに無言で応えることもあったりしたものですが、いつの間にか人並みに言葉を発せるようになり、なんなら初対面でもそれなりに会話を弾ませることもできるくらいにコミュ力がアップした、という経歴もあります。

昔バンド活動もしていたのですが、その時は「一人で弾き語りライブなんて絶対無理だな」なんて思っていたけれど、去年成り行きで弾き語りライブを、それもワンマンでしたりもしました。

 

できないと思っていたことがいつの間にかできるようになっていた、ということは意外と多く、それならば今できないと思ってることもいつかできるようになるかもしれない。

なんなら今すぐにだってその心の鍵を解き放つこともできるかもしれない、なんて思うものです。

 

その度胸みたいなものは一体どこから来るのか。

昔の僕と今の僕で何が違うのか。

 

これが大人になるということなのか。

そんなまさか自動的に度胸が付くわけもなかろうに。

 

経験でしょうか。

経験と知識でしょうか。

 

なるほど、それならばやっぱり僕は、いろいろなことを知って、いろいろなことを体験したいものです。

 

おしまい

「百聞は一見に如かず」だが百聞だって大事

前々回、眠気に耐えながら「知識だけでは本当にはわからない」「知識では伝わらない体験がある」というような話を書きましたが、とはいえ知識も大事だろうとも思います。

知識とはある種の武器だと思うからです。

 

いや、武器というとまた変な誤解を生みそうなので、別の言葉で例えたい。

 

僕は知識って、料理で言うところの「材料」だと思うのです。

キャベツとかトマトとか、牛肉とか鶏肉とか。

 

そして思考、つまり考えることが「料理」だと思うのです。

それが和食であるか、中華であるか、フレンチであるかは今は関係ないのでご想像にお任せします。

 

 

材料だけではいけないと思います。

聞かれればポイポイ知識が飛んでくる人は確かに賢いかもしれないけれど、どこかで聞いた話だからおよそ深みがない。

『グッド・ウィル・ハンティング/一期一会』のセリフを借りるならば「君の話しに興味はない、全て本に書いてあるからだ」といったところでしょうか。

凄いは凄いと思うけど。

 

 

反対に、ただの料理野郎というのもいただけない。

材料にこだわらず、そこらへんに生えてる雑草で料理されてもこちらとしては困るわけです。

まだ食べられるものならいいけれど、プラスチックとか段ボールとか入れられた日には文字通り食べられない。

それはつまりどんな人かと言えば、社会情勢とかに関してアツく語りはするものの、その前提となる知識が間違っていてめちゃくちゃ、みたいな人でしょうか。

ブログを書く身としてはこれに気を付けたい。

 

 

ともすると、どっちかだけでは宜しくない。

どっちもあって、初めて人は正しさに近い答えを、自ら導き出せるようになると思うのです(実際に正しいかは別問題)。

 

そうして自ら出した答えは、自分なりの料理です。

それはもはや体験であり、全てを言葉で伝えきることはできないでしょう。

今僕が説明してるこれだって、多分ほとんどの人にとってはお口ぽかん状態ではあるまいか。

いいとこピンとは来たとしても、本当の意味で僕と同じような想像をしてる人はいないはずです。

 

つまり僕なりの料理ということになるのですが、もしかしたらあなたにとっては美味しいものかもしれない。

でも材料の出所までは想像のしようがないでしょう。

これは、僕の持ってる知識と、これまでの経験・体験を持ち寄って、僕のある程度偏った考え方によって導き出された答えだからです。

どこかが違えばもう違う。

 

 

となんだか少し話が逸れたような気がしますが、いずれにせよ言えることは、材料となる知識の良し悪しは大事だということです。

一生懸命筋トレをしていても、そのやり方が間違っていては身体を壊すのです。

 

そういった意味では、知識は「前提」と言えるかもしれません。

でも知識だけじゃ駄目だよね、って話で。

 

いろいろなことを知って、いろいろなことを体験したいものですね。

 

おしまい

水をこぼしまして

ペットボトルの水を飲み損ない、服を盛大に濡らしてしまったので、乾くまでブログを書こうと思い、筆を執りました。

いつもはパソコンで書くので、なんともスマートフォンだと書きづらく思うものですから、多少なりとも変なところがあるかもしれません。

 

いつも変だから大丈夫でしょうか。

 

スマホは単純に書き慣れてないというのもあります。

書き慣れてないというか、入力し慣れてない、ですか。

遅くてヤキモキする。

 

パソコンだとブラインドタッチでパパパッと書いてしまうから、思ったことを流れるように書けるんだけど、スマホだと遅いから、あれ?何書こうとしてたんだっけ?みたいな感じにもなりがちです。

でもどこでも書けるのは便利よね。

 

 

でも便利過ぎるのもたまに傷。

どこでも手にとれてしまうから、本当に大事なことからも目を背けがちになります。

 

だから、本当は隙間時間でもスマホは取りたくないのです。

実際取らないようにしてるんだけど、一方で、ブログにリアルタイム感も少し欲しいなーと思ったりもして、少しジレンマも感じるところであります。

 

何事もバランスでしょうか。

どちらかの側に極端になることもない。

ちょっと書きたい気分だなーと思ったら、少しこうやって他愛もないことをつらつら書いてみるのも面白いでしょう。

 

でも普段は極力触りたくない。

それは今後も努めたいのです。

 

でも書きたいときはこうしてスマホデビューしちゃう。

 

そんなバランスでいきます?(聞いた

 

いきましょうそうしましょう。

 

では乾いてきたのでさよおなら(ぶ)

 

おしまい