最近『運動脳』という本を読みました。
とにかくまあ運動すりゃ人生全部上手くいく、と言っても言い過ぎではないほどの効果効能が運動にはある、と思わせられるほどの情報が詰まっている本です(実際にはそこまで言ってない)。
まず脳に良い。
集中力も増すし、記憶力も上がるしで、勉学が本分な学生をはじめとし、記憶力の低下が気になっちゃうお年を召した方においても運動は推奨される。
精神的にも良い。
気分爽快になるし、鬱病も治るし、心臓も強くなるので緊張にも耐性が付くらしい。
『運動脳』では言及されてなかったと思いますが、もちろん身体に良い。
何をするにも身体を使う人間にとって、身体を動かすための筋肉はたくましくあることが望ましく、たくましければそれだけ疲れなくなる。
毎日疲れてしょうがない、という人は運動をすると改善されるかもしれませんね。
〇
しかしながら、どうしてこれほどまでに人間にとって良いこと尽くしである運動が、衝動的な行為ではないのでしょうか。
というのも、子供だったらいざ知らず、運動したくてしたくてしょうがないなんて感情はほとんどの人には湧き上がらないと思います。
もし湧き上がるとしたら毎日世界はマラソンランナーだらけでしょう。
でもそうはなってなくて、ダイエットしたいと思いながらも運動が続かない、という人が後を絶たない。
なんでだろうな、と考えました。
気分だって爽快になるんだし、頭も良くなるし、理想のボディも手に入る。
ましてや原始時代なんかには狩猟採集して暮らしていたのだから、生きる為には運動が必要だったわけであり、それは本能的であってもおかしくないのではないか。
でもそうはなっていない。
なんで?
〇
考えていると、一つ仮説が浮かびました。
「人間にとって運動は目的ではなく食べる為の“手段”だから」と。
というのも、生きる為に、食料を探す為に人は運動をしてきました。
そして運動してる最中に気分が下がってきてしまっては狩りも採集も続かないのだから、運動をしてる時に気分が爽快になるような遺伝子が生き残ったわけです。
僕達はその子孫であり、だから運動をすると気分が良くなる。
でももし満腹状態だったらどうだろう。
満腹にもかかわらず運動をしたいと思う原始人が果たしていただろうか?というと、いないと思うのです。
いつでもどこでも食料を確保できる時代ではないのだから、動かなくていい時は無駄に動かずエネルギーを温存しておくことが優先されたことでしょう。
そしてまた腹が減ったら動く。
ともすると、現代人は生きることにほとんど困らないわけであり、お腹は基本的に何かが詰まってる状態なのだから、なるほど、それなら運動したくなるわけはないのか、ということに気が付いたのでした。
運動は「食欲」という本能を満たすための手段でしかない。
でも現代は便利になり過ぎて、運動によってエネルギーを使うことなく食料を得ることができる。
エネルギーをここぞというとき以外、極力使わないように生きてきたご先祖様の遺伝子は、運動をして食料を得ることよりも、電子レンジでチンすることを選ぶ。
運動の恩恵は計り知れないが、しなくていいならしないようにできている。
〇
僕なりの仮説ではありますが、そんなようなことかと思います。
でもできるなら運動は絶対にした方がいい。
そう思って、僕も最近よく身体を動かすようにしています。
したいかどうかも大事だけれど、するべきだと思えたことをすることも大事でしょう。
おしまい