今年は「音楽の年」にしたい
あけましておめでとうございます。
企画としては月並みですが、今年の目標なるものを少しつらつらと書いていこうかと思い、新年早々に筆を執ってる次第であります。
2025年、何をしようか、というお話。
○
結論から言いますと、今年は「音楽の年」にしようかと考えておりました。
別に年の移り変わりを基準にやることをパリッと変えるつもりはなくて、実際は昨年末くらいにはいろいろ考えて動き始めてはいたんですけれども、いい機会なので「今年の目標」的な話として採用しました。
具体的には、僕の音楽的実力向上度合とその納得具合の次第にはなるのですが、オリジナルでアルバムみたいな形で曲をいくつか作ってiTunesとかで発表できたらいいなーと考えておりました。
そこまでいくかはわからないけれど、そこを目標に今年は頑張りたいと思います。
○
僕のギター技術は、ギタリスト界隈で考えると(誤解を恐れず言えば)せいぜい下の上です。
どんなに高く見積もっても中の下。
控え目にいったら下の中でしょうか。
それくらい僕はギターに自信がございません。
というのも、ずっとギターボーカルでやってきたので、ギターボーカルなんつーのはギターはそこそこに弾ければ良いのである、というのを言い訳にして逃げてきたのです(実際は「そこそこ」ではいけない)。
セルフハンディキャッピング症候群も多少あるでしょうか、練習しなければ練習しているあいつより下手でも許されるのである、みたいなことを無意識に感じて頑張らなくなるっていうあれです。
でもこのままではいけないと思って意識的にギターを中心に頑張った時期もあるにはあるのですけれども、結局「それでどうしたいのか」というような目標がなく、いつもやめてきてしまいました。
今回は目標を踏まえてきっちり詰めたい。
○
歌も同様。
歩く楽器になりたい(プップー)。
ちなみにレコーディングに関する知識や機材、それらを扱う技術も必要なので、やることは目白押し。
○
目白押しでもやろうと思ったのは、多分僕は一度本気で音楽をやらないと一生後悔するだろうなと思ったからです。
確かに昔バンドをやっておりましたけれども、今振り返るとなんだかお遊びみたいな活動だったなーと思うし(自分自身の活動意欲的な意味で)、ギターの練習などに関しては今述べてきたとおりです。
真面目に向き合ったようで、実に中途半端だったな、と。
そういったことで後悔の念を感じておりましたから、どこかのタイミングで本気で音楽に取り組みたいとはずっとずっと考えていたのです。
でも忙しさですとか、面倒臭さですとか、今更という意味性の懐疑心ですとか、もうお年ですとか、そういったような様々なことを理由に結局なあなあにしてきました。
でもこのままおじいさんになってしまったら、きっと「あの頃からでもいいからやればよかったな」と僕は思うと思ったのです。
今ですらもっと早くにやればよかったなと思うくらいですけれど、やっぱり今が一番若いんだから、今からしかできないんだから、今やることにしました。
温かく見守っていただけたらなと思います。
今年も何卒よろしくお願いいたします。
おしまい
人生で一番古い記憶の候補達
自分の思い出話をペラんペラんとしゃべっていると、たまに「よくそんなこと覚えているね」と言われることがあります。
確かに、中学の同級生の名前なんかはほとんど全員と言っていいくらい覚えていますが、みんなそういうものかと思っていたのだけれど、意外とみんな覚えていない。
小3の日記帳を捨てられないくらいです、僕は要するに思い出野郎の懐古主義ってことになり、きっとみんなは未来を見据えている未来人なのですね。
時に、自分の一番古い記憶について考えたことはあるでしょうか。
僕は何度もありますが、どれが一番古いのかわからないでいます。
というのも、幼稚園児のころの記憶が断片的にいくつかあるので、恐らくそのどれかが一番古い記憶なのだろうと推察されますが、そのどれかがわからない。
これは話しのネタとして書くと共に、これ以上忘れない為にもここに記しておこうという企てです。
〇
僕が5歳のときです。
七五三のいわゆる「袴着の儀」が執り行われました。
愛宕神社で、袴を着させられ、同じ5歳児であろうよその子達と一緒に正座をさせられました。
そこに神主さん(かな?)が厳かな面持ちで登場し、僕達に向かって粛々とお辞儀をしました。
すると僕以外の子供達はみな申し合わせたかのように揃ってお辞儀を返したのです。
僕は「え?あ!」と思って、慌ててみんなを追うようにしてお辞儀を返しました。
そのとき、やはり僕は可愛かったのでしょう、僕達を見守っていた親御さん達がフフフだのハハハだのとほくそ笑んだのです。
僕は恥ずかしい。
人生で初めて「恥ずかしい」と思った出来事かもしれない。
帰りに「ヤマタノオロチ伝説」のパズルを買ってもらいました。
〇
幼稚園の何かの催しで、先生が手品を披露してくれたことがありました。
と言っても、水の入ったバケツをぐるぐる回すっていう遠心力に頼った力技だったんですけれども、タネがあるという意味では一般的に言われる手品もまあ同じような理屈でしょう(違うか)。
ただ、僕は幼稚園児ながら、水の入ったバケツをぐるぐる回せることを知っていました。
遠心力という難しいことは知らなかったけれども、バケツが逆さになってもぐるぐるしてれば不思議と水が落ちてこないのだ。
だからそれを見たとき驚きはしなかったのですが、何故かバケツに水が入っていないように見えたのです。
純粋な僕は思わず声を上げました。
「水入ってないんじゃない?」
すると先生はドヤ顔でバケツの中を見せてき、そこにはしっかりと水が入っておりました。
それで他の園児達は「すごーい!」と大はしゃぎ。
僕は一人「しまったな」と思う。
そのあとイシワのタク君が「手品凄かったね」と感心しているものだから、「僕にもできる」と言いました。
そして実演してあげることにしました。
園の外の水道でバケツに水を溜める。
タク君は「そんなことできるわけない」「やめた方がいいよ」と信じてくれない。
このやろう、やらいでか!
ぐるっと回しても水は落ちてこない。
成功である。
彼はいたく感心しておりました。
僕も立派な手品師です(違うな)。
〇
ケイちゃんとなっちゃんという二人の女の子と遊んだことがあります。
3人で自転車を交換っこすることになったのだけれど、どっちかの自転車のスタンドのロックの外し方がわからず、二人がぐるぐる乗り回しているのを棒立ちで見守っていました。
どちらかが楽し気に言ったものです。
「乗らないの?」
まだまだ若く、わからないことが恥ずかしいことのように思えたのでした。
〇
このとき自転車に乗れていたということは、父と自転車の練習をした記憶はもっと古い。
住宅地の名前を冠する大きめの公園に行って、父に後ろを持ってもらって、漕いで、放されて、転ぶ。
漕いでは、転ぶ。
誰しもが七転び八起きです。
〇
そんな父にまつわる思い出がもう一個あります。
確かお客さんが家に来てて、大人達が優雅にステレオで音楽を楽しんでおりました。
僕はそのステレオの近くにいたのでしょう、父が僕に「音量を少し下げてくれ」と言いました。
僕はボリュームの摘みをぐるりといっぱい回しました。
そしたら音量を下げる方ではなく上げる方だったみたいで、ステレオからまるでライブハウスの如く爆音が家いっぱいに鳴り響きました。
僕は猟銃の音にびっくりして逃げ出す野生動物のように飛び上がって、急いで母ちゃんの元に逃げました。
渋々と父が自らボリュームを下げに行き、僕は父に怒られると思ったけれど、怒られませんでした。
〇
腹が痛い、と言ったかどうか、幼稚園に行かず病院に連れていかれたことがありました。
先生に診察されて、母はなんと言ったか、僕本人もどのように体調を伝えたかは覚えていないけれど、先生は「まあ体調的には問題なさそうなんで幼稚園にも行けると思うけれど、どうする?」と僕に聞いてきました。
少し照れながら「(行かなくて)いい」と言ったら、先生と母は笑ってました。
〇
幼稚園におもちゃを持ってきてはいけなかったと思うんだけれど、僕は一度持って行ったことがあります。
と言っても、小さな恐竜の置物(陶器だったかな?)で、それをみんなに見せたかっただけなのです。
でも結局ははしゃいでしまって、階段の手すりを使って「ヒュー!」って滑らせたら恐竜さんは見事にスポーンと飛んでいって、小さなブラキオサウルスの首は折れてしまいました。
物を壊して焦ったのはこの時が初めてだと思います。
○
コウスケ君がお母さんと一緒に家に遊びに来て、帰りにうちの庭で「おしっこちょー」と言いながら立ちションしたことがありました。
子供ながらに絶句した。
○
ズキ君家に行ったとき、彼が「漏れる!漏れる!」と言いながらトイレに急いだんだけど、結局トイレの前で漏れてしまって「あーあ」と他人事のように感想を述べていました。
○
兄の同級園児がうちで嘔吐した。
○
かくいう僕もお漏らしキッズでしたが、幼稚園でお漏らししたときの思い出深い出来事があります。
僕は多分人知れずお漏らしをしてしまって、休み時間になって先生もお友達たちもみんな外に遊びに出て行ったんだけれど、それを追うこともできず、独り教室で「どうしよう」としょんぼりとしていたときです。
偶然、兄の絡みで幼稚園に来ていた母が教室の前を通ったのです。
人生で初めてのミラクルか。
僕の粗相に気付いた母は諸々処理してくれまして、下を体操着に履き替えさせてくれました。
これで誰にも知られることはないと、僕は意気揚々と外に遊びに行きました。
先生は衣装の変わった僕を見て「あれ?」ととても不思議そうでした。
へへっ。
○
母に幼稚園に送られて、友達のお母さんに言われたことがあります。
「目赤いけどどうしたの?」
母は応答しました。
「朝から兄弟喧嘩で泣いちゃって」
どうやら泣くと目が赤くなるらしいと知る。
○
手芸とかに用いる小さい玉みたいな「ビーズ」ってあるじゃないですか。
空き瓶の周りに紙粘土を練り付けて、そこにビーズをまぶしてオリジナルの花瓶を作る、みたいなことも幼稚園の催しでしたんですけれど、子供ながらにビーズと音楽の「B'z(ビーズ)」の違いはなんだろう?と思ったものです。
これもビーズで彼等もビーズ。
どっちが正しいビーズ?
どっちも正しいビーズ?
ちなみにユウキ君が転入してきたときも「勇気」と同じで変なのって思った。
僕はきっと言葉に興味がある。
○
食パンを放置して腐り具合を観察するっていうのもやったような気がするんだけれど、あれは幼稚園だったかな。
○
スイミングを習い始めました。
浅いプールでジャブジャブするようなことから始まるものでしたが、普通の深さのプールに底上げ台を敷いて、遊ばされたことがありました。
台に立っても胸の高さくらいにまである水深にはしゃいでいると、うっかり足を踏み外し、頭まですっぽり水の中に入ってしまったことがあります。
まだ泳げない僕は文字通りあっぷあっぷしました。
そこに、同じくスイミングに通っている一番上の兄が見えました。
高々3つ上の兄に僕を救えるかはわからないけれど、とにかく頼れるお兄ちゃんに助けてほしい。
でも水が口に入ってきて声が出ない。
必死にゴボゴボジャブジャブしました。
そうしたらいつの間にか台に立っていたのです。
恐らく監視をしていた大人が気付いて助けてくれたのだろうけれど、その感覚もなかったし、当時そういう発想もなかったのでとても不思議に思いました。
今でも真相はわからない。
もしかしたらちょっと泳いだのかもしれない。
○
幼稚園の催しシリーズ。
餅つきをしたときは木槌が重くて上手に打てなかった。
ホールで遠藤先生が切ったリンゴから10円玉を出すっていう手品も見せてくれた。
ろうそくを持って「きよしこの夜」を歌った。
手作りの物を、手作りのお金を使って売り買いする「お買い物」体験をした。
運動会はあいにくの雨で、隣の小学校の体育館でやった。
○
ホールに向かって並んでいるとき、タクミ君と「寄り目ができるか」という話で盛り上がっているところに、近くにいたケイちゃんが「私できるよ!」と急に入ってきて、頼んでもないのに顔をドヤっと見せてきたんだけれど、それが全然寄り目になってなくて凄く気まずかった。
これが「お、おぅ…」の初体験。
○
当時タクミ君は特に僕を好いてくれていて、どこに行くにも僕の後ろを付いてきたものだから一度「なんで付いてくるの?」と怒ってしまったことがあります。
酷いと思います。
ごめんなさい。
それでも仲良くしてくれたのだから、僕は良い友達を持ちました。
彼の家に行ってお昼をご馳走になったことがあります。
左手で箸を持って麺をすする彼を見て「箸、逆だよ」と僕が言うと、彼のお母さんが優しく教えてくれました。
「左利きだからいいのよ」
左利きというものを知る。
○
思い出なんか意味ないと言う人もいるでしょうか。
人は思い出の数だけ成長するものではないでしょうか。
おしまい
『ライオン・キング:ムファサ』を観て映画に思いを馳せる
今日は映画『ライオン・キング:ムファサ』を観に行きました。
元々アニメの『ライオン・キング』は子供のころから何度も観てるので、僕にとって『アラジン』に負けず劣らずの馴染み深いディズニー作品なのですが、フルCGでリメイクされた『ライオン・キング(2019)』はアニメと比べて実に表情に乏しく正直好かなかったので、同じくフルCGで作られた本作もあまり観ようという気にはなっておりませんでした。
でもお話の内容自体には興味があったし、なんとなく休みで時間があるなーとふと思い立ち、ふらっと観に行ったのでした。
○
観に行ったのは昔僕がアルバイトをしていた映画館。
チケットを買って、せっちんに寄って、ポップコーンを買って、いざシアターに入室。
入ってすぐに違和感に気が付きました。
「もしかして冷房付いてない?」
扉を境にフロアと比べて肌感覚で寒い。
冷風が出てる気すらする。
でももうすぐ映画が始まるという事実と、昔アルバイトしてたからこそわかる「1回の上映ごとにシアターチェックなるものが入るから、きっとチェックに来たスタッフが気が付くだろう」という推察により、わざわざシアターを出てスタッフに報告することはしませんでした。
着込んでたしね。
ところが結局最後まで寒くて、劇中、誰しもが席を立ちました。
何が目的で席を立ったかまでは聞かないとわかりませんが、寒いのは終始変わらなかったので多分お花を摘みに行ったのでしょう。
寒いとブルっちまいますからね。
○
そんなブルブルながらの鑑賞でしたが、映画はおおむね楽しめました。
お金儲けのためだけに作られたどうしようもない続編作品も世の中にはいっぱいありますから、そういう映画だったらどうしようかという一抹の不安もありましたけれど、思いのほか出来が良かったです。
ムファサの子ライオン姿には年甲斐もなく正直目頭が熱くなりました。
ファーストコンタクトでブルっちまいました(感動で)。
これは思い出深いからこそでしょうね(『アラジン』の実写は帰ろうかと思ったが)。
『ライオン・キング』観直したら普通に泣く自信がある(どんなもんだい!)。
音楽も良かったです。
随所に原作のオマージュとも取れる演出が見られ、ハンス・ジマーさんのメロディに時を越えて改めて心打たれました(今回の作曲家は別の人)。
歌はたくさん歌われてましたが、全部難しそうでした。
「サークル・オブ・ライフ」とか「ハクナ・マタタ」みたいなテーマソングになるような耳に馴染む曲はない、かな?
○
調べてみると、原作の『ライオン・キング』ではムファサとスカーは列記とした兄弟という設定らしいですね。
今回の義兄弟設定は、『ライオン・キング(2019)』でできたものらしく、あくまでもあの映画の前日譚である、ということになるのでしょう。
僕はアニメのあの表情豊かなキャラクターがやっぱり好きでしたから、ムファサの幼少期もぜひアニメで観たかったところですけれども、そもそも叶わぬ願いでしたか。
いやそもそも後付設定なんだから別にムファサとスカーが実の兄弟だとしても……(ぶつぶつ)。
○
しかしながら、CGはめちゃくちゃ綺麗でした。
一昔前なら実在する動物のCGなんてもう見てられないくらい酷い出来だったりもしましたけれども、だいぶ違和感ないくらいになってきたかなという気がしないでもないくらいになったような気がしてるところなのかもしれませんか?(聞いた
いつだか、確かジョージ・ルーカス監督(『スター・ウォーズ シリーズ』等)だったと思いますが、こんなようなことを言っていたと聞きました。
「作家の頭の中には壮大なスケールの物語が思い描かれているが、それを再現するだけの技術がなかった」
「今はその再現技術がある恵まれた時代だ」
(そういった事情から『スター・ウォーズ』をエピソード4から作ったらしいですね(それ以前のお話は壮大過ぎて当時作れなかった))
現代を生きる若者にはピンと来ないかもしれませんが、要するに、思い付いても、撮れない時代があった。
それが今ではCGで、なんでも撮れる、なんでも作れる。
僕としてはあまりCGは好きではなかったりするのですが、実際CGがなければ『ジュラシック・パーク』を筆頭に数々の大作は生まれなかったでしょう。
『ターミネーター2』も生まれない。
『タイタニック』もあのスケール感は出せない。
『ロード・オブ・ザ・リング』も『ハリー・ポッター』も魔法が出ない。
『アイアンマン』はせいぜいやれても戦隊物の巨大ロボくらいの動きしかできない(もしくは『エイリアンVSアバター』に出てくるような着ぐるみ)。
『アベンジャーズ』ともなれば土台無理な話でしょう。
もちろんCGがなかろうとも(クオリティさえ無視すれば)作ろうと思えば作れるのだろうけれど、物理的に実写には限界があるわけで、それがCGのおかげで際限がないほどに可能性は広がったと言えるでしょう。
そのおかげで僕達鑑賞者も非現実世界に没入することができる。
その集大成とも言えるのが、こうしたフルCG作品なのでしょうね。
しかも『トイ・ストーリー』のようなアニメーションとは違い、実写に近いクオリティでやるのだから恐れ入ります。
いずれAIが映画を作るなんて話もありますが、その日はそう遠くないのでしょうかね(遠い目)。
一方、僕自身は現実に生きたいものです。
おしまい
クリスマスもといサンタクロースについて思うこと
「クリスマスの思い出」というお題に答えてみたい、と思うのですが、考えてみるとあまり思い出らしい思い出が思い付かない。
どれも素敵なサンタクロース体験であったことは間違いありませんが、取り立てて書くほどの珍事は起きたことがない、といったところでしょうか。
でもせっかくなのでクリスマスにちなんだお話をつらつらと書いてみようと思います。
〇
クリスマスという文化は、僕は好きです。
多くの人が好きだとは思いますが、僕も同じく好きです。
ただ、大人になるにつれてクリスマス=恋人の日、みたいなイメージになるのはいただけない。
海外ではそんなような日ではないと聞いているし、僕にとってのクリスマスはやっぱりサンタクロースが人知れず僕ん家に忍び込み、知る由もないはずの僕の欲しい物を何故か知っていて、どういうわけか無償でプレゼントしてくれることにある。
「それも間違った観念だよ」という人もいるでしょうが、うるさい今は僕にとってのクリスマスの話しをしている(じゃあ恋人の日だって(うるさい
〇
「サンタクロース」はまるで魔法のようです。
信じている非現実的なことが本当に現実に起こってしまう魔法です。
手から炎を出してみたくたって炎は出ない。
動物と話してみたくたって動物とは話せない。
仮面ライダーに変身したくたって変身できない。
ビーダマンのビー玉は空を飛ばないし、ミニ四駆は壁を走らない。
気も念もチャクラもないし、悪魔の実も飛天御剣流もない。
誰しもがあのころ願ったようなことのほとんどは現実に起こらない。
でもサンタクロースは来てくれるのです。
彼だけは願ったとおりに来て、願ったとおりの物を、願ったとおりに置いていってくれるのです。
明くる日、目が覚めて、プレゼントを発見したとき、魔法を体感します。
あの幸福感は形容のしようがない。
ずっと続けばいいことのように思います。
〇
僕がサンタクロースの正体に気付いたのは小学3年生か4年生のときでした。
気付いた、というよりは知らされたといった方が正しいか。
二番目の兄です。
彼が学校から帰ってきて言うのです。
「サンタさんって親なんだってよ!」
そのまま兄に引っ付いて二人で母を問い詰める運びとなったのですが、言われるがままで、僕はまだそのとき内容を本当には理解できていませんでした。
え?
親?
サンタが?
親が?
サンタで?
なに?
サンタさんが?
ん?
兄が母を問い詰める横で一緒になって問い詰める姿勢を取っていましたが、内情は事の顛末を見守る傍観者。
傍観者から見た母の表情は、本当のことを言うか言うまいか葛藤しているようでした。
結局は母が折れて、そのとき僕の魔法は事切れた。
〇
小学5年生になって、当時懇意にしていたナカ君がサンタさんを信じていると言うものですから、それはそれはもうマウントを取りたい気持ちに駆られたおしゃべり将史君は言ってしまったものでした。
「え!?まだサンタさん信じてるの!?」
これには深く反省している。
彼には申し訳ないことをした。
子供とは残酷で勝手なものである。
〇
途中で魔法が切れるのはもったいない、僕やナカ君のような結末はあまりにも悲しいことではないか、と後に思って、そうだ我が子にはできる限りサンタさんを信じてもらうよう精一杯努力しようと思ったものでしたが、高校生になってバンドを始めて知人のライブを見に行ったとき、対バンのガールズバンドがこんなMCをしていました。
「皆さん聞いてください!うちのベースの子中学生までサンタさん信じてたんですよ!すごくないですか!?」
おお君は僕の子か、と思うと同時に、なんか客観的に見ると夢を見過ぎるのもちょっと間の抜けた感じがして考え物だなーと思って、人知れず考えを改めたものでした。
夢と現実のバランスは難しい。
でもやっぱり羨ましくもある。
それだけ君は魔法経験者だ。
〇
ちなみに一番古い記憶で貰ったサンタさんのプレゼントは『アラジン』のVHS。
数え切れないほど繰り返し観て、僕にとってとりわけ思い出深いディズニー作品となっています。
僕のアラジンにまつわる歌をいくつか聴いたことがある人もいると思いますが、どうして歌えるのかというと、そういうわけなのでした。
好きなクリスマス映画はやっぱり『ホーム・アローン』。
シュワちゃん主演の『ジングル・オール・ザ・ウェイ』も捨てがたいし、手堅く『素晴らしき哉、人生!(1946)』もいい。
でも『トイ・ストーリー』にもクリスマスのイメージがあるし、ミスタービーンのクリスマスエピソードもめちゃくちゃ好き。
今年はどう過ごそうかしら。
お仕事でした。
大人でした。
おしまい
僕が“おしゃべり”ではなくなった理由
ところで、自他共に認められる賑やかしの“将史君”はどこへ行ってしまったのでしょうか。
賑やかしと言えば聞こえはいいですが、実際はおしゃべりでおふざけでただ小うるさくて一定数の人には多分嫌われていたんだろうなーということが今なら容易に想像が付く、落ち着きのないガキんちょだったっていうだけなんですが、いずれにせよそんな僕なりの元気くんは鳴りを潜めてしまいました。
これにも明確な要因がある。
中学1年生のときである。
〇
中学生になると、僕が通っていた小学校とは別の小学校からも生徒がやって来ました(当事者も幾人か読んでることと思います。元気?)。
僕の後ろの席は他校生OZAWA。
初めこそ持ち前の人見知りもあってなかなか話しかけられませんでしたが、どこかのタイミングで喋るようになると、授業中でもよく喋るようになりました。
一番印象に残ってるのは地理の授業。
先生が一生懸命自分の話しをしているのに、僕とOZAWAがぺちゃくちゃ喋ってるものだから、先生は注意しました。
「聞けコラ」
小学校では味わったことのないような叱り方にすっかりビビった僕等は意気消沈したものです。
ただ、これで心を入れ替えたわけではない。
これはただまだこのときはお喋りだったというだけのエピソード。
〇
1年生も後期に差し掛かるころ、どこでも前期と後期で「学級委員」が代わるものかと思いますが、その後期の学級委員を決めることになったときです。
確か立候補者が一人もいなかったものだから、推薦投票が行われました。
要するに、誰が学級委員にふさわしいか。
そんな人が果たしているのかどうか。
僕は選ばれるようなガラでもキャラでもないことを自覚していたので、まあ鼻をほじるような心持で投票の行く末を見守っていました。
ところが、なにがなんだか、僕の名前が何個も呼ばれます。
何個も呼ばれて、そのまま投票数が一番になってしまいました。
えらく動揺しました。
一体何が起きたのか。
僕なりの考察は一応ありますが、想像の域を出ないので深くは言及しないでおきます。
純粋にみんなに認められたということは絶対にないので、恐らくは誰かの計らいだと思ってるのですが、あらぬ疑いであったら誰かを傷つけてしまうかもしれない。
なんにせよ、僕が一番です。
こうなってしまっては致し方がないから、僕が1年3組後期の学級委員を請け負うことになりました。
立派なことのようですが、実はこれが鳴りを潜める要因です。
〇
学級委員と言ったって何をするのかよくわからない。
よくわからないが、なんだか真面目である必要がありそうだ、と僕は思ってしまいました。
だから真面目を装うようになったのです。
給食の時間もあんなにはしゃいでいたのに、席を立たなくなってしまったし(立つな
僕なりに相応しい人になろうとしたわけですね。
と言っても、あくまでも装ってるだけで、根が真面目になったわけではない。
そんなに簡単に人は変われない。
身の丈にも合ってないし、実力も伴っていない。
2年生になって初めて接したアベシは「最初は真面目な人かと思ったけど仲良くなったら変な人だった」と僕を評したものです。
はたから見ると真面目。
根はポンコツ。
それが当時の僕です。
○
人格を形成するにあたって思春期に何をするか、何を経験するかということは至極大事なことだと思います。
そうした時期に僕はある種の自己分裂のようなことを起こしたわけですが、結果、高校生に上がって自分の人格がよくわからなくなってしまった時期があります。
つまり、人とどのように接していいかわからない。
久しぶりに中学のバスケ部で集まったとき、あんなに遊んでたのに、どういうテンションで彼等と接していたかわからなくなってしまった僕に、部長はボソッと言いました。
「なんか変わったね」
高校では割とぼっち。
放課後、別の学校に行ったバスケ部のマイタこと米田君とばかりつるんでました。
友達の友達に会うことがあって、何やら問い掛けられたとき、返事をしなかったのは今でも申し訳なく思う出来事です。
接し方がわからないからどのように返事をしていいかわからないまま思考停止した、というのが今の自己分析です。
元気いっぱい短パン小僧将史君はもうどこにも見当たらない。
○
それからどのようにして今に至るかは長くなるので割愛しますが、僕にとってあの学級委員になるかならないかは人生の大きな分岐点でした。
もしあそこでならなかったら僕は今でも将史君だったかもしれない。
それきっかけで生徒会にも立候補して、実際なりましたけれども、それもなかったでしょうし、真面目な人=勉強できるというようなプレッシャーを感じることもなく伸び伸びと中学時代を過ごせていたかもしれない。
高校も将史君一本でいけたかもしれない。
そしたら今頃どうなっていたんでしょうね。
“半そで短パン芸人まさしくん”として活動していたかもしれませんね。
じゃあこれで良かったか。
おしまい
僕の物書きの原体験
しつこいですが、M川先生についてどうしても書きたいことがまだあるので、もう一掘りだけしたいと思います。
僕がこうして書く文章にまつわる話なので、お付き合いいただけたら嬉しいものです。
〇
彼は僕達生徒に「日記」を宿題として課しました。
日記が宿題というのはつまり毎日が宿題ということであり、そんなのは子供はおろか大人だってイヤなものでしょう。
兄ら姉らが家に鎮座する子供達には「M川先生=日記が宿題」というのもまた周知のことでしたから、担任が発表されたとき悲鳴を上げたのはそれも一つの要因でした。
ちなみに、彼が担任になったクラスのある学年は、全クラスで日記が宿題になります。
1組も2組も3組も、みんな日記。
そうなると他のクラスの先生方も自分の生徒の日記に毎日目を通さなければならないわけであり、そういった意味では悲鳴を上げたいのは子供だけでなく先生方も同じだったかもしれませんね(きゃー!)。
〇
まだ小学3年生です。
文章を書くことなんて慣れてないですから、日記と言ったって何を書いていいかわからない。
何を書いたらいいかわからないから、気分も乗らない。
イヤだなーイヤだなー。
そんな思いでいっぱいでした。
でも宿題を放置する度胸もないから、どうしたって書く。
無理矢理にでも書く。
そうした僕達が渋々嫌々だらだら書いた駄文にも先生はしっかり目を通し、一人ひとりにコメントを添えてくれるのです。
ちゃんと内容に沿って。
他の人の日記を覗き見るようなことはしていないので恐らくとしか言えませんが、なるほど毎朝教室の机で書き物をしていたのは、みんなの日記に目を通して全部にコメントを書いていたのか。
凄くない?
ただでさえ先生って多忙だと思うんだけれど、彼はそれを毎日やった。
それから僕は、なんだか先生が自分の文章に反応してくれるのが面白くなって、いつしか先生を楽しませたいと思うようになりました。
そうすると文章そのものが面白く感じたし、楽しいと思うようになったのです。
○
日記は日々配られるプリントに書くことになっており、その書くスペースはちゃんと決まっていたけれど、楽しくなった僕はまずそのスペースを何文字かはみ出すようになりました。
気分が乗れば乗るほどはみ出しは長くなり、プリントの余白いっぱいに書くようになります。
日記は縦書きで右から左に書いていくのですが、スペースを突き破った文章はまず左の余白を埋めます。
左の余白がなくなったら今度はぐるっと回って右の余白を使って…という具合です。
それから、これでは流石に読みづらいと見かねた母が、日記スペースの形に切った紙をペロってめくれるようにテープで貼り付けてくれるようになりました。
これで二日三日分相当の文字数を心置きなく書けるようになり、確か最高七日分くらい書いたと思います。
○
恐らく学年の最後まで日記がイヤだった子もいるだろうし、そういう子は一行で終わらせたりもしていたのかもしれません。
仮にそれを先生が許さないとしても、許されるであろう限りなくアウトに近いセーフを狙って彼等は書いていたのではないでしょうか。
僕の場合、こんなのはもう半ば“おしゃべり”です。
喋り終わるまでは書き切れない。
先生にお話し聞いてほしい。
そのためならいくらだって書いてやるぞって気持ち。
もはや文通に近い。
もしくはお手紙交換(自由帳描かなくっちゃ)。
期せずして僕と先生は友達のような関係になったのかもしれませんね(多分違う)。
○
この経験がなかったら、僕は今こうして文章を書くことはなかったかもしれません。
高校生のときにバンドを始めてブログを書くようにもなりましたから、あれも一つきっかけにはなっているけれども、そもそもこの宿題日記筆記体験がなければブログだって続かなかったかもしれない。
そういった意味ではM川先生は僕が一番影響を受けた担任の先生であり、思い出深いのです。
ちょっとイジってみたのは、愛故です。
今頃何をしているでしょうか。
まだ現役かな、もう引退したかな。
お元気ならば何よりです。
おしまい
M川先生の深掘り
もしかしたら前回の話だけだとM川先生が感じの悪い人だと思う人がいるかもしれないと思ったので、彼の名誉のために思い出話を少しだけしようと思います。
それで彼の人となりが伝わったらいいなーと思うものです。
〇
兄やら姉やらがいる人の間ではM川先生は「怖い先生」として有名でした。
だから全校集会で各学年各組の担任が発表されるときは緊張の瞬間です。
実際に自分たちのクラスの担任として発表されたときはクラスみんなで悲鳴を上げたのですが、その様子を見ていた先生は怒るでも悲しむでもなく、ニンマリしていました。
子供ながらになんとも憎たらしく感じたものですが、今思えば彼のいたずら心がうかがえます。
〇
僕達生徒は彼に何度も怒られました。
前回のお話のように全体でも怒られたし、個別でも怒られました。
一番印象に残っているのは、僕の話じゃないんですが、女子2人が授業中にお手紙交換をしているのを先生が見つけたときです。
先生はほとほと飽きれまして「もう君達は授業なんて受けなくていいから自由帳でも描いてなさい」と言い放ちました。
説教されて落ち込んだ女子達は、言われたとおり自由帳を描きだしました。
それを見て先生は言ったものです。
「本当に描くな!」
彼は一生懸命です。
これは聞いた話で僕は覚えていないんですが、高見のこうちゃんが怒られたときなんかは「家に帰れ」と言われたそうです。
帰れと言われたこうちゃんはやっぱり帰ろうとしたそうですが、階段の前で先生に呼び止められました。
「本当に帰るな!」
彼は決して悪い人ではない。
ただちょっと一生懸命がから回る。
〇
授業参観の日、科目は音楽でした。
「富士山」にまつわるお歌の授業だったのですが、先生は僕達に言いました。
「富士山に関して疑問や不思議に思うことを一人一つ挙げなさい」
お母様方が見守る中、生徒達は立たされ、疑問を見事提示できた人から座ることができます。
えーなんだろう?と考えてる間にどんどん疑問が述べられ、述べられれば述べられるほどネタがなくなっていき、僕は焦りました。
焦れば焦るほど出てこなくて、結局僕と誰か(覚えてない)の2人だけになってしまいました。
これはまずい、さすがに最後の一人にはなりたくないと思って必死に考えたところ、あ!思い付いた!
「富士山のてっぺんは雲よりも高いのにどうして雪が積もってるのかなと思いました」
先生は理由をわかってるんだかわかってないんだかよくわからない様子で答えました。
「まあ気温が低いから雪がごにょごにょ…まあいいや座りなさい(笑)」
それを聞いてお母様方はクスクスと笑っておりましたが、あれは先生を笑ったのか、僕を笑ったのか。
ただ僕はなんとなく恥ずかしくなった。
〇
M川先生が担任のときだけ特別な催しがありました。
それは「クラス全員が忘れ物をしない日が3日続いたらパーティをする」というものです。
パーティと言ったってただ弁当箱にお菓子を詰めて持ってきたり、みんなでケーキを作ってみたりとかそういうものでしたけれども、子供達にとってはビッグイベントです。
「えー!いいな!そんなのパーティし放題じゃん!」などと思うなかれ。
これが簡単そうで意外とできない。
誰かしら忘れ物をする。
子供とはそういうものである。
実際僕は3日目に忘れ物をしたことがある(どん)。
「明日誰も忘れ物しなければパーティだ!」とみんなではしゃいだ次の日、登校し、のん気に階段を上っていると女子2人が近付いてきて、こう言うのです。
「あれ!?鍵盤ハーモニカは!?」
瞬間、心拍数が跳ね上がりました。
まずい、忘れた。
「あ!教室に置いてあるのか!よし次行くよ!」
絶句してる間に彼女達は勝手に解釈し、検問を続けに行きました。
人生最大のピンチです。
いっそ取りに家に戻ろうかとすら考えましたが、忘れ物を取りに帰ることは固く禁じられておりましたので、“しゃべりすぎ”ても根はビビリな僕にその禁を破る勇気はありませんでした。
これはもう正直に言うほかあるまい。
○
忘れ物をした場合、自己申告しなければなりません。
大体先生は朝一から教室にいるので、気付いたタイミングで言いに行きます。
これもまた緊張の瞬間です。
申告すると先生は書き物をしている手元から目を放し、ゆっくりと顔を上げます。
そして無言でこちらを見て凄みます。
タジっとすると、こう言うのです。
「後ろに立ってなさい」
忘れ物をした人は教室の後ろに立たされるという公開処刑を受けます。
教室に朝入ってきて後ろで突っ立ってる人がいたら、それは残念ながら忘れ物をした人です。
僕が鍵盤ハーモニカを忘れたときも立たされましたが、そのときは結局僕の他にも2,3人立っていました。
僕は僕だけじゃなく心底ホッとしました。
○
思うに先生は本当には怒ってない。
ただそうすべきだと考えて演じていたように思うのです。
根は生徒思いの優しい先生だったのだと、大人になった今は思います。
おしまい