しんぷる・が・べすと

「愛に時間を」

僕は多分、これでいいのだ

特に「幸福考察ブログ」をうたっているわけではないので、あんまり幸福幸福言うのも少しと抵抗があるのですが、思ったことがあったのでもう一つか二つかいくつか書いていこうと思います。

 

よく「あのときああしていれば」みたいなことを考えたりしないでしょうか。

要するに後悔のようなものだと思うのですが、僕はしょっちゅうあります。

あのときの自分に今の自分のままに戻れたならば、あんな風なことはしなかったのに。

あのときもっと彼にこういう風にしてあげられたのに。

あのときもっと違う形の選択をしていれば、こうではなかったのに。

あのとききっともっとちゃんと時間をかけてまたきちっとした計画を立てていたならば、もっと一角の人間になれたかもしれないのに。

 

そんな子供じみたことを考えては、まあ今が一番若いんだから今から頑張るしかないんだよなーと大人ぶった態度で人生をこれからも生きていく所存である、などと誰に言うでもなく一人思いに耽ったりするのですが、ふと「幸福」というものと絡めてみると、どうにも今で十分幸せであるかもしれないなと感じるものでした。

 

どうしてそういう風に思うのかと言うと、どれか一つでも違ったものであったならば、つまりあの日あのときあの場所での僕のあの行動がもっと違ったものであったならば、今の僕のこの生活はないわけです。

出会ったあの人にも出会わなかったかもしれない。

経験したあれもなかったかもしれない。

思ったことも思えなかったかもしれない。

大事な何かを失ったかもしれない。

そう考えると、今のものたちを僕はどれも手放したくないと思っているのであって、どれも大切なものに感じられるのであって、ともすると、僕はこの人生で十分幸せを感じているのだろうと思ったのでした。

 

もし人生を心の底からやり直したいと考えるのであれば、今とはガラっと変わった生活を強く望むのならば、それは現状に満足していない証拠だと思うのです。

でも僕は今を手放したくないと思えているのであるならば、僕はそうか、幸せと言ってもいいのかもしれない。

 

だなんて言うと、「でもその別の道でもっと幸せに思える人生を送れたかもしれないよ?」なんて意地悪を言う人がいるかもしれないけれど、それはまあでも考えてもしょうがないよね。

歴史にたらればはないように、確かにあっちの道の方が良かったかもしれないけれど、それを確かめようがない以上は、現状に満足しているだけで十分御の字です。

 

だって、向こうの方が良かったかもしれないけれど、悪かったかもしれない。

それが果たしてわからないのならば、僕は「これでいいのだ」と思っていいのです。

 

とは言え、これから更に良いと思える人生を目指すのか、現状維持で満足するのか、怠惰に過ごすのかは今の自分次第。

きっとより良い人生を目指しながら一生懸命に生きていくことが、先々に感じる幸福に繋がるのではあるまいか。

それで生まれた失敗はきっと後悔にならないから。

 

などと思うものでした。

 

おしまい